【映画】祝宴!シェフ(總舖師)

台湾映画「祝宴!シェフ(原題:總舖師)」を観てきました。
宴会料理人たちの料理の戦いをテーマにしたコメディ映画、台湾の宴会料理がたくさん登場するということで、きっとお腹が空くのだろうなぁ…!!と覚悟して出かけたのですが、どっちかというと、私的には「料理したくなる」映画でした。それに、やっぱり中華包丁って興味深い。使いこなしたいです。誰か教えてくれないかしら。
伝統的な職人技の光る料理もいいけど、毎日の食卓で馴染みのある料理は最高だよね、というメッセージも良かったな。
あと、宴会料理人たちは、チームで戦いに挑むのですが、リーダー自身が直接的に腕を振るうことよりも、いかにメンバーを動かすかだよね、というスタイルが当たり前のように描かれていて、そこも興味深かったです。いや、多分、これはキャラ設定上の流れで、テーマでもなんでもないと思うのですが、仲間をいかに仲間にしていくか、それも実力のうちだよなぁというのが、個人的に今のテーマなので、気になったのです。
ちなみに、料理をする人間が次々出てくる中、一番シビれたのは、ローズマリーでした。ローズマリー、かっこいい。

ということで、帰ってきて早速作った晩ご飯の一品、蕃茄炒蛋。トマトの卵炒めです。シンプルなのに難しい。
今日のは、我ながら味は良かったのですが、見た目がね…。卵をふっくら綺麗な黄色に仕上げたいものです。
トマト卵炒め(蕃茄炒蛋)

炒米粉(焼きビーフン)も作りたかったけど、残念ながらビーフンの買い置きがなかったのでまた次回。

【映画】呉さんの包丁(呉桑的鋼刀)

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「呉さんの包丁(呉桑的鋼刀)」という映画を観てきました。
台湾の金門島という島で、包丁づくりをする呉さんを追ったドキュメンタリーです。

国共内戦が始まり、台湾の国民軍と大陸の共産党の戦闘となったとき、台湾の最前線となったのが、この金門島でした。金門島と厦門はわずか10kmしか離れておらず、1958年8月23日に始まった40日を超える823砲戦では、大陸側の共産党は48万発もの砲弾を金門に向かって打ち込みました。
その後も、1978年までの間、両軍は隔日で宣伝弾を撃ちあう毎日。島の人々にとっては、大変な日々が続きました。「投降しろ」「台湾には自由があるぞ」なんてビラを、お互いに撒き合っていたのですね。
もっとも、こんなことを言っては不謹慎かもしれませんが、宣伝弾の中には「缶詰」なんていうものもあったそうで;何が入っていたのかは分かりませんが、台湾側から打ち込まれたものとして紹介されていたので、美味しい物か何か、自由や経済発展を象徴するようなものだったのではないかな、と思いますが この話にはちょっとユーモラスな印象も受けました。

呉さんのつくる包丁は、こういった時代に大量に打ち込まれた、砲弾を材料に作られています。

…ということは、前にも聞いたことがあって、知っていたのですが、なんとなく、砲弾を溶かして加工して作ってるのかなー、、なんて思っていたのです。
ところが、映画で観てびっくり。呉さんは、砲弾そのままの形の金属を四角く切り取って、そのままカンカン伸ばして包丁に仕立て上げていました。まさか本当にそのままだとは!
ちなみに、823砲戦で打ち込まれた「爆発するタイプ」の砲弾はもう無いそうで、今は宣伝弾として打ち込まれた砲弾を使っているそうです。

今の金門島は、高粱酒の一大産地として有名で、島の財政はとても潤ってるそうです。バスは無料、子育て費用負担もかなり少なくて済むとか。島に戸籍のある人間には、年に3回、12本ずつ(だったかな?)の高粱酒が支給されるそうで、そんなに貰ってどうすんねん、と思わないでもないですが、どんな暮らしがあるのか、興味がわきます。さらに、台湾といえど、金門島は日本に統治されかった島。日本時代の名残があちこちに息づいている台湾本土とはまた違い、文化的な違いがより濃く感じられそうという点でも心惹かれます。
厦門からは船でわずか30分、かつては唯一、中国人と台湾人が直接行き来できるエリアだったこともあり、中国人観光客もすごく多いようですが、私も一度行ってみたいです。もちろん包丁も使ってみたいなぁ。…ついこないだ、中華包丁を買ったばかりなんですけど…こんな映画を観ると、やっぱり欲しくなります。

【映画】あの頃、君を追いかけた(那些年,我們一起追的女孩)

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地味にじわじわ来る映画。

完全に男子、それも優等生じゃなくて、幼稚な、学校内でも「問題児」扱いされている男の子の目線でストーリーは進む。そのためか、どうしてもストーリーすべてに共感できるわけではない。
私が女で、どっちかというと優等生だったせいもあると思うが、主人公であるカートンの「おバカさ」には、ああ、こういう男子いるなぁ〜というリアルさは感じるものの、なんでそうなのか?は全然理解できない。(ちなみに、この点、主人公を演じる柯震東が、すごーくいい。10代後半の、体ばかり大きくてまだまだ幼い、パワーを持て余した男の子の姿を、ものすごくリアルに演じている。)
その主人公の目線で描かれるヒロイン(チアイー)の姿というのも、優等生で、ちょっと可愛いというだけで、どこが魅力で何故好きになったのか、正直わからない。
所謂進学校に通っていた私の周りにいた男の子たちは、カートンみたいなタイプじゃなく、もうちょっと聡明で紳士なタイプの子が多かったから、そのことも影響しているかもしれないけど、
男の子たちが、なんでこぞってポニーテールが好きなのか、それも全然わからない(笑)

それでも、観ている間、何度も何度も心の何かをさらっていかれるような感覚に陥ったのは、その一つひとつの場面が、確かに自分自身が経験した、あの瞬間に共鳴するからなのだ。

徹底してパラレルワールドのストーリー。
あの時、もしああだったら。あのすれ違いがなかったら。
若い頃の恋愛(あるいは恋愛未満)というのは、どうしたって、勘違いで臆病で、憧れや妄想が強すぎて、現実的に関係を育むという理想からは程遠いものなんじゃないかと思う。(もちろん、そうじゃない関係もあるけど)
そこに、男女のずれ、優等生と問題児の見ている世界のずれが重なり、二人の道は、想いを抱いたままに、どんどん離れていってしまう。

ああ、青春。

そのパラレルワールドの夢物語の隙間に、この映画は、ハッとするような「現実」を挟んでくる。
例えば、チアイーがカートンに向けて投げかける「あなたは、想像上の私を好きなんじゃないかと思う」(説不定你喜歡上的…只是你想像出來的我)という疑問。
例えば、学生時代そこそこ優秀だった仲間が、社会に出てからは、いまいちパッとせず、くすぶっているという現実。
逆に、「最後に夢を叶えるのは、最も才能があった奴じゃない。最後まで絶対に諦めなかった奴だ」(最後會實現夢想的往往不是最有才華的人。而是直到最後也絶不放棄的那一個人)というセリフ。
ああ、そうなんです。まさにそうです。耳が痛い。

終盤、パラレルワールドの二人が幸せに結ばれる映像が何度も流れるが、この二人が、もし、何のすれ違いもなく歩いて来れたとしても、人生を共に歩むことはきっと叶わないであろうことは、観客である私たちも、大人になった主人公たちも、十分にわかっている。
男女の話だけではない。仲間だってそうだ。大人になって、それぞれの道を歩き出した私たちは、今もし、再び同じ時間を過ごすことになったとしても、きっと同じようには笑えない。それどころか、完全に袂を分かつことにさえなりかねないだろう。それくらい、価値観も、積み重ねてきたものも、目指すものも、違ってしまっている。

それでも、あの頃だって、今だって、仲間を思う、愛しい気持ちは、決して偽りじゃない。
描かれる幾つもの、「その瞬間」は、確かに仲間たちが共有した時間であり、間違いなく人生の、私たち仲間みんなの、宝物。
現実を知っているからこそ、ストーリーの中、ところどころ挟まれる現実に、いちいち目を覚まさせられるからこそ、「あの頃」はリアリティを持ち、観客である自身の記憶とも重なっていく。

ウォークマンを耳に突っ込んで、ダラダラと自転車で走る男の子たち。
チアイーが、前の席に座るカートンの背中をペンで突っついたり、椅子を蹴飛ばしたりする、教室内のたわいない場面。
幼稚ね、という言葉でしか、自分もまた、気持ちを伝えられない、その幼さ。
恋愛未満の二人が、電話で何度も長話する、まさに「あの頃」の関係。
あと、大地震の直後に、言い方は悪いがそれを口実に、あるいは、もちろん、本気で心配して、久しぶりに連絡を取り合うシーンも、同じ年代に大地震(映画では1999年9月の台湾の地震、私たちは1995年1月の阪神大震災)を経験しただけに、リアリティがある。

90年代後半を舞台にした、ありきたりの青春譚だと言えば、それまでである。
けれど、それぞれ、全く違うベクトルを向いている、一人ひとりの人生の、奇跡的に交差した瞬間のキラキラを、徹底して、ロマンチックな気持ちから冷めるぎりぎりのところで切り取って見せているところに、この映画の魅力はあると思った。
…この映画を、あの頃仲間だったみんなが観たら、どう思うのかなー…。知りたいような、知りたくないような。全然違う想いを抱いてたら、ちょっと寂しいもんね(苦笑)

映画「海洋天堂」

順序が前後してしまいましたが、少し前に映画「海洋天堂」見てきました。いい映画だったなぁ…。
親子もの超苦手な私が、素直に観れた。
障害者と死を目前にしたその親という題材にもかかわらず、お涙頂戴な演出なく、ありがちな社会的弱者への賛美に走ることもなく。
親亡き後の障害を持つ子の将来というテーマは重いが、あくまで普遍的な、親が子の未来を思う気持ちにフォーカスしていたところが良かったのだと思う。

自分が余命幾許もないと知った父親は、当初こそ絶望して心中を図ろうとするが、失敗に終わって後は、ただひたすらにわが子の生きる術を探し、伝えようとする。
バスの乗り方、買い物の仕方、仕事のやり方。同時に、これからも、いつでも、側で見守っているよというメッセージを必死で伝えようとする。生きろ、生きろ、生きろ、生きろ…
自分はもう直接守ってやれない、もたれかけさせてあげることもできない。できることは、背中を押すことだけ。

もちろん、それでも現実からすればキレイにまとまりすぎという面はあると思う。
「最終的に」感じの良い施設が見つかるとか、子の雇ってくれる先が見つかる、なんてことこそ、実際は厳しかったりするのだろう。
ただ、そこに至る背景が、「聖なる心の持ち主によって」「あまりに可哀想な主人公達の境遇を見かねた神様の情けによって」もたらされるというおとぎ話ではなかった。
父親の人柄、日頃の働き振り、働きかけによる信頼関係の構築を経て、その子のことも見守ろうという人達が出てきた。
このあたりもよかったな。

愛する者の未来を何とか少しでも照らしてやりたいという気持ち。
映画のエンドロールで「すべての平凡な偉大なる父親、母親へ」という(ような)一文が記されますが、まさにそこに尽きると思いました。

http://www.crest-inter.co.jp/kaiyoutendo/

映画「父の初七日」(父後七日)

台湾映画「父の初七日」(原題「父後七日」)を観てきました。
これがかなり面白かった。
面白い…興味深い、という意味でも、笑える、という意味でもです。

突然亡くなった父の葬儀までの7日間を、田舎で父と暮らしていた兄、都会でキャリアウーマンとして働く妹、同じく都会の大学生である甥っ子の3人を中心に描くのですが、まず、現代の先進国の、都会と田舎の距離感の描き方がとても上手い。
いや、私自身は祖父母時代から大阪ぐらしで、所謂田舎というのはないのですが、きっとこんな感じだろうなーという感覚。
田舎にはよくわからない風習があり、面倒くさい人間関係がある。自分の故郷だからそれなりに愛情を持って受け入れているんだけど、なんとなく距離感も持っている、そんな感じ。

それから、葬儀のこと。日本に住む私たちも同じだと思いますが、はっきり言って、葬儀の諸々の決まりごとなんてよくわかりません。
身内が亡くなったら、何が何やらわからぬままに、親戚や葬儀屋さんの言うままに事が進んでいって…というのはよくあるパターンじゃないでしょうか。
その、本人たちの、真面目なのによくわからない…という感じがとてもよく伝わってきました。
肉親を失った悲しみに向きあう暇もなく、次々押し寄せる出来事に振り回される兄妹の様子に、可笑しさを感じたり、共感したり。
大切な当人たちの感情を置き去りに、形だけの風習にこだわるなんて…と憤る向きもありましょうが、私は、めちゃくちゃかもしれないけどこれでいいんじゃないかなぁなんて思いながら鑑賞しました。私の父が亡くなった時のことについて、後から母が言っていたことを思い出したからです。
(日本の仏式の場合)お通夜、告別式、初七日、一周忌、三回忌…という行事が続く。人が集まる行事が、最初は密に、そしてだんだん時間を置いて行われることになっている。集まってくれる人数も、徐々に少なくなっていく。それは、単なる宗教的な決まりごとに見えて、実際遺された遺族が悲しみから立ち直っていく過程に沿っているんだと。
儀式というのは、本人のためであるというフリをしながら、実のところ周囲の人間のためにあるのかもしれないなぁ。葬儀に限らず、結婚式や成人式なんかも、みんなそんな側面が実は大きいように思います。

あと、日本人にとって興味深いのはこの映画で描かれる葬儀が(台湾では一般的なのかな?)道教のものであるということ。
道教について全く知識がない人間からすると、ここはひたすら興味深い。
泣き女?葬儀に楽隊が登場?お経が賑やか!弔客にはこう対応するのか…などなど。

ここに、次々とやってくる関係者がそれぞれの思惑を持って(もちろん本人たちはそれぞれ真剣)絡んでくる様子を、客観的に映しだすので、共感しながらも、興味を惹かれながらも、やっぱり笑ってしまうのです。

「客観的に映しだす」というところは、この映画の一番のポイントだったと思います。
都会と田舎の距離感、現代に生きる私たちにとっての、葬儀という伝統儀式に対する距離感、肉親を亡くした人間の感情と、次々押し寄せる「現実」との距離感、父と娘の距離感、叔父と甥の距離感、昔の恋人との距離感、世代間の距離感。
決して冷たいわけでなく、それぞれにそれぞれを受け入れながら、でもちょっと距離がある感じ。
その距離感の捉え方の上手さが、ベタベタの家族ものでも冷たすぎる現代人ものでも、単なるコメディでもない、良い作品を作ったのじゃないかと思いました。
馴染みのない文化を知りながらも、笑え、共感してしまう。
おすすめ作品です。

蛇足。
少し話が逸れますが、ここのところ、しばしば心に浮かぶキーワードに「同時代性」というのがあります。
海外の映画を見たり、海外の若者〜同世代の言葉を見聞きしたりするにつれ、感じる、同時代性。
一昔前なら、例えばヒット曲一つとっても伝わるのに時間があったはずです。もしくは、「遅れている自分の国(日本)」に対して「憧れの最先端の国(アメリカだったりヨーロッパ諸国だったり)」という図式があったはずです。
でも、今はほとんど同時に、流行を共有している。もちろん、同時にそれぞれの地域性というのもあるんだけど、確実に全世界同時に共有している空気というのがある。
このことは1年くらい前に見た映画ドイツ映画「ソウルキッチン」でも、先月の大阪アジアン映画祭で見たマレーシア映画「ナシレマ2.0」でも感じました。台湾原住民ミュージシャンsumingの「僕は原住民だけど原始人じゃない。同じ時代に生きてるんだ」という言葉も印象的です。
今回も、台湾(…は、外国の中では比較的日本に近いものがあると思いますが)の都会を生活拠点とするほぼ同世代の感覚を、ほぼ違和感なく共有できたと思います。
この同時代性というのだけは、上の世代が一度も持たなかったもの。この空気をリアルに吸っている世代が、今後の世界に何かしらおもしろい影響を与えていくんだろうという予感がするのです。