「優秀な」

今日のつぶやきから、独り言。

「働く環境」についての問題提起の中で、「優秀な女性を活用しなければ…」という表現をよく目にします。
優秀な人材を家庭などに閉じ込めておいては勿体ない、労働人口が減少する中でそんなことをしていては国際競争に勝てない、といったようなことです。至極まっとうだとは思うのですが、同時にひっかかりも感じます。
必ずといっていいほど記されている「優秀な」という枕詞。

優秀でない女性はどうでもいいんでしょうか?
優秀でない男性はどうなんでしょう?

男女問わず、優秀な人材はどんな仕事でも歓迎される。一般論としてこれは当然なのでここでは置いておきます。

労働というのはそもそも、生活の糧を得るために行う活動のことであって、優秀かどうかに関わらず、生きている限り必要なものです。
その労働環境を考えるときに、対象人材を「優秀な」人に限ってしまうような表現に対する違和感。
普通の人が普通に働きたい、けど諸々の事情で難しいということが問題なのに、これでは置いてきぼりな感じ。

ある人が優秀であるというのは、その人が何かしら期待と同等かそれ以上の成果を上げている意味ですが、その大前提として「ある状況に適応できている」んだということを押さえておく必要があります。
状況に適応できているからこそ、うまく行動し、成果を上げられているのです。

過去長い間、いわゆる男社会では、女性が働きにくい状況がありました。
女性は成果を上げにくかったし、そもそも働くことも難しかった。
それはつまり、その社会(=状況)に、女性が適応するのが難しかったからであって、女性の能力が低かったからではありません。
大会社の部長が、全く別ジャンルの中小企業では何の役にも立たない、という皮肉な笑い話がありますが、これも同じことだと思います。
優秀かどうかの判断は、その時点で、ある大前提をふまえているということです。

一般的な労働環境改善を考えるとき、「優秀な人材を逃すかも」という脅し文句は、脅し文句である限りはある程度有効かもしれません。
が、その言葉を無意識に受け入れてしまうということは、結局「男社会」と同じ構造を再生産しているに過ぎないように思います。
–「男が働き易い状況」を前提として、そこで成果を出せる人材を評価すること(女性は成果を出しにくい)
–「とある状況」を前提としてそこで成果を出せる人材を評価すること(その状況に対応できない人は成果が出せない)
前提がどうであるかを、常に押さえておく必要があるのじゃないでしょうか。

もちろん、現実にある企業が自社の業績を考えるときは、現実として「とある状況」を前提とするわけで、そのこと自体はごもっともでしょうが、
一歩進んで労働問題一般を考える際には、「優秀な人材を逃がさないためにうんぬん…」を「言葉どおり」受け止めるのは違うんじゃないかなと思うのでありました。

どんな人でも、働きたい人は働ける状況があった上で、優秀な人はさらに活躍できるように、というのが大事だと思います。

これからのこと。

東日本の大震災、今更ですが、被災された方には心からお見舞い申し上げます。
また、原発の状況が少しでも早く良くなり、最善の対策がなされうよう祈るばかりです。

地震が発生した3/11から、多くの人と同じようにいろいろな出来事に出会い、時間の経過とともに変化する自分の心理状況に直面しました。
まず思ったのが阪神大震災のこと
そのとき齧り知った、直後の気持ちの盛り上がりと、やがて忘れられた後の復興の長さのこと。
情報源として主に触れていたのはtwitterですが、首都圏の人たちの、恐らく初めての災害に対する気持ちの動きを少し覚めた目で見つつ
しかしながら当然、自分もその渦とは無縁でおられるはずもなく、情報に触れ続けました。

津波の映像も、海外メディアの被災地のあまりにストレートな写真も、私は見続けていました。
悲惨な情報に触れるだけでも心は疲れ、傷が残る恐れがあることは知っていたので、意図的に遠ざけることはできたのですが、でも、私はできるだけ触れていようと思ったのです。
叱られるかもしれませんが、ものすごい訓練だと思いました。
大量に流れこみ続ける情報に自分がどう対応できるか、裏付けの曖昧な情報をどうやって取捨選択するか。
考える訓練、疑う訓練、選び取る訓練、間違えたら訂正しすぐに次に向かう訓練…。
日頃からネットっ子の情報マニアです。この状況にはあえて埋もれていたいと考えたのです。
当初混乱していたtwitterのタイムライン上であっという間に情報を整理するためのルールが共有されていき、googleパーソンファインダなどがまたたく間に整備され始めたことは感動的でもありました。同時に、テレビや新聞という従来の情報ソースだけに触れている人たちとの温度差も感じました。
ある種の社会システムは確実にこの状況に対応し、変わっていく。その瞬間を見続けていました。

一方で、「日本が変わるきっかけだ」という言葉には違和感もありました。今もあります。
教訓は確実に受け継がれ、ある種のシステムは改善されることは間違いないけども、日本が根本的に変わるのか?
残念ながら、そんな簡単には変わらないでしょう。
むしろ、太平洋戦争当時の「昔話」として聞かされていたことが一瞬に今の話になってしまった感覚さえ私は感じています。情報が錯綜する中で不謹慎という言葉が乱発され、リーダーの姿勢がわかりづらい状況下で今、日本人が取っている行動は一体なんだ?
実は昨日、太平洋戦争末期の、とあるドキュメント映画を見たのですが、今まで歴史としてみていた過ちが全然そう見えなくて愕然としたくらいです。

今日現在、皆が被災地と原発、首都圏の電力不足問題に目を奪われています。皆。皆?
西日本はどうするのでしょう?
経済界は何をしているんでしょう?
日本が一丸となって、という掛け声があるけど、それって果たして同じ方向を同じ気持で見ることなのか?

原発と被災地の問題は必ず解決しなくてはなりませんが、(やや乱暴な言い方ですが)必ず復興に向かうはずです。
一方、私が今気にするのは世界における日本の存在感です。

ちきりんさんという方の書かれたブログがあります。
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20110327
この中の、特に1と2について、今考え動けるはずの西日本は、経済界は実際のところどう向きあうのでしょう?
何か動いているのでしょうか?

製造業の製造が滞り、観光客留学生の足が遠のく状態が恒常化し、日本なしで世界が回りだしたら大変だと思うのです。
別に遷都しろとかそういう話ではなく、政府や東日本が目の前の被害に集中せざるを得ない緊急時、ならばそれ以外、対外的な立ち回りは西日本が暫定的に引き受けるという発想で動いている人はいるんだろうか?
日本は広い、西日本は大丈夫としつこく知らせる、西日本の観光地をPRする、震災原発以外の、日本に来ることのハードル〜言葉の問題とか〜を低くする試みに力を入れてみる。そういうことはできないのかな?
例えば、海外からの観光客向けグルメポータルサイトをつくって、同時に掲載店の外国語メニュー/ベジタリアン宗教対応状況がわかるようなものをつくって店側に提供するサービスなんかだったら、言葉ができる人さえいれば簡単にできる。外国人の立場になってみれば、こういうサービスがあるだけで劇的に敷居は低くなるはずです。

「一丸となって」国内のそれも被災地ばっかり見ず、手薄になっているところを能動的にカバーするという役割が必要だと思うのです。
むしろこの隙を商機に、という動機になってもいいくらいだと思うのですが、元・日本の中心でその後ゆでガエルのようにダメになった大阪の人にその意識、気概が残っているのかどうか。気概があっても実際に動ける人脈、原資があるのかどうか。その点が非常に心もとなく、情けない。しっかりその一部である自分も情けない。

吉本芸人の藤井隆さんが「頑張るのは僕達です。被災地の方はしっかり元気になってください」というようなことをおっしゃったそうです。
これはそのまま、東と西にも言える。もっと普遍的な、日本人に欠けがちなリーダーシップの取り方を示しているんじゃないかとも思う。

自分の仕事も満足に回しきれていない私が、毎度の抽象的な言葉でこんなことしかやっぱり書けないことに、情けなさを倍増させながら…。

Poor Ducks!

Twitter経由で知ったこちらの動画…
アヒル?がちょう?親子が風ですっとばされてコロコロ一大事!!
なすすべもなく、枯葉のように転がされてしまうベイビーたちがかわええぇぇぇぇ!

…というのが、「日本語の」大方のコメント(twitterでもそうやってまわってきました。)。
が、Youtubeの英語コメントを見ると「Sad!」とか「Poor ducks!」という言葉が並んでいて、私はそちらに興味がわきました。

たしかに、一大事でかわいそうなのです。場合によっては命にかかわる事件なのですが、同じ動画を見て「かわいい!」という反応と「かわいそう、気の毒」という反応が言語で分かれるのがおもしろいなぁと思いました。

poorという単語に、もしかしたら私がイメージする「惨め、貧しい」以外のニュアンスがあるのかな?と最初は思ったのですが、調べてみてもそんな様子はなく、やはりそのまま、シリアスに受け止めているのですよね。
対して、日本人の「かわいい!」は、どっちかというとコミカルな受け止め方。
アヒル親子の命を軽んじる意識はほとんどの人にはないはずなのに、この受け止め方が出てくるのは…これって漫画表現とも通じるのかなぁと思いました。

ある物事を、おもしろくおかしく、可愛くとらえる視点。

絵なんかもそうですね。
Kawaiiという単語は、今は海外でも通じるらしいですが、子供っぽいバランスの、大きな目のキャラクターというのは日本を始めとするアジアの得意な表現です。ヨーロッパの人の描く絵って、子供向きのものでも何かシリアスで、動物なんかでも「かわいさ」がないんですよねぇ。
不思議な違いです。
(アメリカはトムとジェリーみたいなコミックもあって、シリアス一辺倒でもない感じがしますが)

なら国際映画祭「高木正勝特集」

久しぶりに音楽イベントに行ってきました。
なら国際映画祭の高木正勝さんの映像上映&ピアノソロコンサートです。

高木さんの音楽は、たまにちらっと耳にして良いなと思ってたくらいで
ちゃんと聴いたことはなかったのですが、
お隣の奈良県で、生演奏が聴ける機会だったので、これもご縁かと出かけました。

映画監督の河瀬直美さんとの対談や、ドキュメンタリーフィルムの上映もあったので
高木さんの、制作過程で考えていることや、音楽のイメージを垣間みれて興味深かったです。

高木さんの音楽って、身体感覚をすごく大事にしているんですね。
私は今は音楽はやっていないですが、
気持ちのままに音を出す(歌でも楽器でも)とか、
体を動かすってのはたまに無意識にやってまして(傍から見たらへんですよね、笑)、
なので、高木さんのおっしゃってることもそういうことかな、と共感しました。
観終わったあと、夫が「シャーマン的な…」と言っていたのですが、そうともいえますね。
でも、それは、自分の外にある霊的な物というよりは、究極の身体感覚。
この感覚って、ものづくりをする人間には絶対的に大切なものだと思います。
ただ、しかし、、私の場合……
音やダンスに関してはともかく、それが絵になるとどうなんだろう…
高木さんの音楽を聴きながら、この感覚を絵にするとしたら…というイメージをずっと追いかけていたのですが、逆に言うと、それができてないことが自分の課題なのかなーと思ったり…というか、まさにそうなんですよね…(しょぼん)

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以下、印象に残った言葉です。(正確な言葉は覚えてないので、そういった内容の言葉、ということで)

「(理想形としては)ダンスを踊りたいのかもしれない」
目指す音楽のイメージの例えとしておっしゃっていたこと。
なんかわかる気がします。
解き放ちたい、自分の身体感覚にぴったり一致させたい、ということでしょうか。

「聴かせるための音楽ではなくて、自分自身が楽しい音楽」
制作の究極であり、基本でもあると思いました。
自分の中にあるぼんやりした感覚をつかまえて、慎重に慎重にそのカタチを明確にしていく作業。
その間、自分のバイオリズムを絶対に裏切らないこと。
それを、どんな状況でも、お客さんの前でもストン、とできるようになれるのが理想と思います。

「(ある時期から)自然界にある音と自分の奏でる音で会話する感覚を得た」
それまでは海の音はあくまで海の音だったのが
ある時、自然音に対して自分が音を出したときに、自然とミックスされて一つの音楽になるようなそういう感覚を得たと。
そういうふうなことをおっしゃっていました。

「(制作中は)風の色が見える」
解き放ち、研ぎすます…。
なのに、日常に戻ると見えなくなる、それが大変なんだ、ということもおっしゃってました。
戻れなかったらそれこそ大変なんでしょうけども(現実としては)、
感覚をある程度コントロールして現実社会に対応することと、
感覚を全開にして研ぎすますこと、またその範囲を広げるべく自分を磨くこと、
その行ったり来たりが、ものづくりの人間の日常といえるよなぁと思いました。

それにしても、ドキュメンタリーフィルム(或る音楽)で演奏されていた、Tai Rei Tei Rioのライブが素晴らしかった!
会場はスピーカーの限界か、ちょっと残念な部分があったのですが、それだけに生演奏、聴きたかったなぁ!!。

あと、今調べて知ったんですが、奥様が高木紗恵子さんなんですね。今日音楽と映像見ながら、似てるなぁと思ってたのでびっくりして納得!
紗恵子さんの絵も、印刷媒体でしか観た事ないので、こちらも機会があったらぜひ実物を拝見したいです。

オリンピック

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バンクーバーオリンピック、フィギュアが終わりましたねー。
採点方法にはいろんな意見もあるようですが、キム・ヨナちゃんはやはりダントツ!
高い技術の上に花開く表現、というのがぴったりと思いました。

個人的には鈴木明子さんやアメリカの長洲未来ちゃん、男子だと高橋大輔さんやスイスのランビエール選手みたいに、演技に華のある人が好きです。

オリンピック全般そうなのですが、フィギュアは特に、私自身の創作活動に重ねて感ずるところが多いように思います。
先にも書きましたが、身に付いた技術の上にこそ成り立つ表現の力強さとか、自分らしさをいかに活かすかとか…
周りがどんな状況であれ、自分は自分の演技をするだけ、というのもそうですよね。

あと、年齢と共に理解/共感できることも増えて、それだけ感動も増えてくるのを実感してるのですが、今回思ったのは「満足です」という言葉の示すもの。
モーグルの上村愛子さんが「満足です…あ、満足じゃないんですけど…」というような言い方をしていたのですが、自分の力は出し切った、でも、結果は届かなかった、という、「ほんとにやりきった」という意味の「満足」。
切なさと、充足感。無力感と、すがすがしさ。
そんな感じでしょうか。

ちょうど、「ほぼ日刊イトイ新聞」で糸井重里さんが同じようなコラムを書かれていました。

まったく参加することもできないような競争で、
 「実力不足」なんてことは言えません。
 「あわよくば好成績も」と欲がでてしまうくらいの強さ、
 というか、弱さが認識できたときに、
 やっと言えるようになるんだろうと思うのです。
 今回、これを言えた選手は、
 ようやく「実力不足」と言える地点に到達したんですね。
 つまり、「実力不足でした」なんて言えるほどの実力は、
 なかなかつくもんじゃないんですね。
 
 他人のことはわからないですが、
 ぼくがいちばん長くやっていた
 コピーライターという仕事で、
 「実力不足だなぁ」と感じたのは、
 おそらく中年になってからだったと思います。
 大きな「無力感」といっしょに感じたものでした。
 でもね、「実力不足」を感じてから後のほうが、
 あらゆることがおもしろくなったのも確かです。
(糸井重里:2月25日「今日のダーリン」より)

残りの競技も、ちらちら楽しみながら、日々の活動にいそしみたいと思います。