オリンピック

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バンクーバーオリンピック、フィギュアが終わりましたねー。
採点方法にはいろんな意見もあるようですが、キム・ヨナちゃんはやはりダントツ!
高い技術の上に花開く表現、というのがぴったりと思いました。

個人的には鈴木明子さんやアメリカの長洲未来ちゃん、男子だと高橋大輔さんやスイスのランビエール選手みたいに、演技に華のある人が好きです。

オリンピック全般そうなのですが、フィギュアは特に、私自身の創作活動に重ねて感ずるところが多いように思います。
先にも書きましたが、身に付いた技術の上にこそ成り立つ表現の力強さとか、自分らしさをいかに活かすかとか…
周りがどんな状況であれ、自分は自分の演技をするだけ、というのもそうですよね。

あと、年齢と共に理解/共感できることも増えて、それだけ感動も増えてくるのを実感してるのですが、今回思ったのは「満足です」という言葉の示すもの。
モーグルの上村愛子さんが「満足です…あ、満足じゃないんですけど…」というような言い方をしていたのですが、自分の力は出し切った、でも、結果は届かなかった、という、「ほんとにやりきった」という意味の「満足」。
切なさと、充足感。無力感と、すがすがしさ。
そんな感じでしょうか。

ちょうど、「ほぼ日刊イトイ新聞」で糸井重里さんが同じようなコラムを書かれていました。

まったく参加することもできないような競争で、
 「実力不足」なんてことは言えません。
 「あわよくば好成績も」と欲がでてしまうくらいの強さ、
 というか、弱さが認識できたときに、
 やっと言えるようになるんだろうと思うのです。
 今回、これを言えた選手は、
 ようやく「実力不足」と言える地点に到達したんですね。
 つまり、「実力不足でした」なんて言えるほどの実力は、
 なかなかつくもんじゃないんですね。
 
 他人のことはわからないですが、
 ぼくがいちばん長くやっていた
 コピーライターという仕事で、
 「実力不足だなぁ」と感じたのは、
 おそらく中年になってからだったと思います。
 大きな「無力感」といっしょに感じたものでした。
 でもね、「実力不足」を感じてから後のほうが、
 あらゆることがおもしろくなったのも確かです。
(糸井重里:2月25日「今日のダーリン」より)

残りの競技も、ちらちら楽しみながら、日々の活動にいそしみたいと思います。

唯一手のひらの中に。

フランスでは創造的な仕事でも「メチエ」(職人仕事)の側面を大事にする。音楽院に留学した日本人が先生に聞かれた。君はいつ作曲するのか。曲想の湧いたとき、と答えたら怒られた。朝のこの時間、と決めて毎日作曲していれば、自ずと曲想は湧くようになる、というのだ。
(日経新聞 09/10/19夕刊 ”明日への話題” 荻野アンナさんのコラムより)

-創造的な仕事でも職人的側面をしっかり持っていたいと思う。
-続ける事、それだけが唯一自分の手のひらにある選択肢で、それはつまり、「今日もやる」ということ、「今からやる」ということ。
-続ける、その蓄積の先には私の知らない世界が感動的に開けている。

今日(09/10/2)の日経夕刊に載ってた道尾秀介さんのコラムの言葉にうなずく。

小説だって、きっと魂が込められていないものは面白くも何ともない。一生懸命に頭を使って書かれていても、それだけでは人を感動させることは不可能で、せいぜい感心させるのがいいところだ。心だけで書いた作品もつまらない。(中略)その作品を読んで得られるのはいいとこ同感や共感で、感動では決してない。
(中略)
僕は作家のくせにそれほど頭がよくもないし、心だって、ごく人並みの感受性しか持っていない。だからこそ、作品には人一倍必死に魂を注ぎ込まなければいけないと思っている。

頭だけではいいものが作れない事も、情緒で描くもんじゃない、ってこともある時期からわかってはいたけれど、「魂」の有無が観る人に与える感動について気づくようになったのは割と最近。
それだけ、私は頭でっかちで、感受性も大したことないってこと。

魂を込めるのはすごく疲れる。
でも、魂の手応えは確実に自分の地肉となり、真の自信につながっていく。

何でもうまく早くやることが良しとされがちな世界。
魂を込める対象が目の前にあることに感謝しなくてはいけないのかもしれない。

生活と芸術と哲学と宗教

橋本豊さんというイラストレーターさんのブログが好きで
http://blog.goo.ne.jp/yutakahashimoto
よく読んでいます。
面識はない方なのですが、(共通点は年が同じ、および京都に縁があるということだけ)なんというか書いている内容とか考え方が私にとってすごくまっとうに感じられて
(まっとう、というのは道徳的に正しい正しくないということではなく、ものすごく自然に納得できるという意味)
そういう感覚を不思議に思ったりもします。

そのブログに昨日書かれていたのが、息子さんの幼稚園探しのために見に行ったシュタイナー教育の幼稚園のことで、
その中に

>そこ(イトウ注;シュタイナー教育の理念、現場のこと)には生活と芸術と哲学と宗教があるわけで、つまり、現代にはこの4つが欠けているかバラバラに存在しているという状態なのかもしれません。
>いつもバラバラになろうとするそれらをつなぎ止める事はできないかもしれないけど、つなぎ止めようと維持する事が生活であり、人生なんだろうと思います。

という一文があり、すごくぴったりくる表現だな、と思いました。
ぴったりすぎて、しばらくぼー。。っと感動してしまった・・

ところで、私はキリスト教徒でも仏教徒でもなく、宗教は何?と問われれば何もないのですが
無宗教か?というとそうではない気が常々しています。

お天道様が見てるよ、とか
ご飯を食べるときには必ずいただきます、と言うこととか、
自然の中のありとあらゆるものに神様が宿っているんだよ、という感覚とか、
何かわからないけども、確かに何かに守られている感覚とか、
科学/経済分野で時々行われる傲慢な試みに対するものすごく強い違和感とか、
こういった、理屈がどうであれ侵しちゃいかないと絶対的に思い込んでいることの色々。

(millq appartmentは、こういうものの見方が投影されてるような気はしてます。)


生活と芸術と哲学と宗教、の価値を、形は様々であっても大切に守っていけるような「人生」を!
そして、こんなことを考えられること自体、幸福ということなのでしょうね。

今日のことば

「何年かかってもよいでしょう。
自分を出そうとしなくても、見た感じを逃さぬように心掛けてゆけば、その都度違う表現となって、いつのまにか一枚の葉っぱが手にはいりますよ。
一枚の葉っぱが手に入ったら、宇宙全体が手に入ります。」

日本画家・小倉遊亀さんが師匠である安田靫彦氏に言われた言葉。

自分の表現としての絵を描くときはもちろん、何事であっても自分の思いを形にするときにはあてはまる言葉だと思います。
「見た感じを逃さぬよう、表現しつづけていく」ことの積み重ねこそを、自分自身の人生だと振り返ることができるのだろうな。