荒野さんのこと

井上荒野さんの書く文章がすごく好きだ。
過不足なくさらっと、しかしじんわりと書かれた文章は、私の感じていることをもクリアにするし、じんわり考えこませてくれたりもする。
今は毎週土曜日、日経新聞の夕刊にコラムの連載があるので、それを楽しみにしている。
特に、「夫」と「食べもの」がテーマのときはものすごく共感してしまう。

荒野さんは同じく小説家である井上光晴さんの娘さんである。
井上光晴さんの小説は読んだことがないのだけど、荒野さんがお父さんについて書いたノンフィクション、「ひどい感じ」を読んで、ここにも共感することがあって新鮮さを覚えた。
うまく表現できないのだけど、荒野さんの中のお父上の存在位置と、私の中の父親の存在位置が近いような気がした。

荒野さんの、この本を評して「ファザコン」と指摘する人もいる。もしかしたらそうかもしれない、と思う。だとしたら私もそういうことになってしまうのだろうけども、彼女の「ファザコン」は、一般に連想されるような「自分の父を理想として世の男性にも求めてしまう」というタイプのものではなく、「現実には満たされなかった、理想的には父から満たされたかった部分を、実在した父親の客観的な姿から吸収しようとする」タイプのもののような気がする。
そして、それならば、私にも十分思い当たる。何しろ私の父親に関する記憶は断片的すぎて、そこに理想を求めようもなく、人から聞いた、あくまで客観的な姿をつなぎ合わせることでしか父親像をつくれないのだ。おまけに、そのエピソードときたら、なんだかちょっと変わった人であることを表現するものばかり…(そんなところも共感した理由かもしれない…;変わり具合は随分違うけれども…)
また、父を理想の男性とするタイプのファザコンなら、「夫」との関係も難しくなりがちなのでは?と思うが、荒野さんと「夫」さんとは極めて仲がいいことがエッセイから伝わってくる。むしろ、「男性」を客観的に、自分の外にある存在として見ているからこそ、対等で依存しあわない、良い関係が築けているという印象を受ける。

先週末の荒野さんのコラムでは、また「夫」とのエピソードが披露されていた。
夫に対して、何をどう考えても自分(荒野さん)が悪いことをしてしまった後の、自己嫌悪や、ぼんやりした気持ちや、不安。詫びる言葉を口にするまでの時間の流れと行動。そして、対する「夫」さんの、穏やかな「怒り」と「愛情」…
タイトルに使われていた「じんわり」という言葉は、荒野さんの「良くない気分」を表現したものだったが、私には「じんわり」心が温かくなる話だった。